第9章 書斎での詰問

公爵は書斎のソファに腰を沈め、執事が淹れたばかりの紅茶を手にしていた。だが、口はつけない。

アリシアが一口だけ飲んでカップをソーサーへ戻した、その瞬間だった。公爵は前置きなく切り出す。珍しく、声に重みがあった。

「アリシア。正直に言え。あの蜘蛛糸布と、その上に組まれていた複合魔法陣――あれは、いったい何なんだ」

視線は、つい先日十五になったばかりの末娘へ。値踏みするような眼で。

アリシアは、来ると分かっていた。

父は、彼女がすり替わったとは疑っていない。デルマン司祭の一連の検査、屋敷の侍女たちの証言、そして何より――父自身が感じる「娘である」という手触り。それらが揃っている。執事に呼び戻された当初は深く考えなかったのだろう。だが、異変が一つ、また一つと積み上がれば、さすがに放ってはおけない。

ただ、父には理解できないのだ。

魔法の授業すら真面目に受けてこなかった娘が、錬金術師ですら手こずりかねない複合魔法陣を組み上げるなど、あり得ない。もし名のある錬金術師の仕事なら、誰も疑わず、巧妙さに舌を巻くだけだ。だが、それが娘の手によるとなれば――吟遊詩人ですら盛りすぎを恐れて避ける類の与太話になる。

それに、仮に偽物だとしても、普通はもっと慎重に振る舞う。わざわざ異常を、次から次へと堂々と晒すはずがない。

アリシアはカップから手を離し、静かに言った。

「お父様。ここしばらく、少し……特別な出来事がありました。そのせいで、魔法って、私が思っていたよりずっと素敵なものだって気づいたんです」

そう言って、胸元から一冊のノートを取り出す。両手で、丁寧に差し出した。

「まずは、これをご覧ください」

煉瓦みたいに分厚い一冊。黒い表紙は魔獣の革らしく、かすかに魔力の残滓が滲んでいる。描かれているのは複雑な魔法陣が一つだけ――用途は読み取れない。

公爵は表紙の魔法陣をしばらく睨んだが、結局何の陣か分からず、装飾だと判断したらしい。

表紙はくたびれていて、角は毛羽立ち、擦り切れている。大切に保管されていた風でもない。魔獣革の反応がなければ、ただの古いノートにしか見えなかっただろう。

扉には署名がない。代わりに、一行だけ走り書きがある。

『生活に魔法は必要だ。魔法もまた、生活から遠ざかってはならない』

ページをめくれば、雑然とした落書きのような文字と図がびっしり。乱暴な筆致で、思いつきを殴り書きしたように見える。だが目を凝らすと、どれも「魔法を日常へ落とし込む」ための試行錯誤だった。

公爵は黙ったまま、ページを繰る。

アリシアは身を乗り出し、必要な箇所を指で示しながら、淡々と説明した。

「ここが、蜘蛛糸の固化剤の配合。こっちは温度制御の術式。最後が、清掃術です」

エイモスも覗き込んでくる。二人とも魔法使いではないから理屈は追えない。それでも、このノートの持ち主が常識外れの方向へ走っていることだけは、読み取れた。

公爵がさらに数ページ進めるたび、知らない話ばかりが出てくる。

――このノートの主は、変わり者だ。

まともな魔法使いなら「生活魔法」など研究しない。だが、その荒唐無稽に見える発想が、アリシアの作った品と噛み合うと、不思議なほど筋が通ってしまう。魔法を日常へ持ち込むという夢想は、すでに「成果」になっていた。

公爵が視線を上げる。

「……これは、どこで手に入れた」

アリシアは用意していた答えを、迷いなく差し出した。

「書店で買いました。正確には、本を買ったときのおまけです。あの店、新刊だけじゃなく古本も扱っていて、紙やペンも置いてますでしょう。私がよく通うので、店主が時々、ついでに何か付けてくれるんです」

一拍置き、続ける。

「元は、ただの見習い用のノートだったみたいです。中身も薄くて。……でも、あるとき、表紙の魔法陣に私の血がついてしまって。それで、今みたいになりました」

手に入れた時期を曖昧にする。最近の出来事ではなく、もっと前からあったように聞こえるように。

公爵はしばし沈黙し――やがて、頷いた。嘘なら調べればすぐ分かる。娘がこの件で下手な虚言を弄するとは思わなかったのだろう。

「好きで、才能もあるなら」

公爵はノートを返した。

「途中で投げ出すな。やるなら、やり切れ」

「はい。必ず」

アリシアは真面目に答える。魔法を捨てるなど、あり得ない。

その後も父と兄は、蜘蛛糸布と魔法陣についていくつか質問を重ねた。アリシアは一つずつ答えた。

やがて彼女はノートを抱え、席を辞した。

背後から、公爵の声が追ってくる。

「休め。明日は、こちらで学院まで送る」

「……はい」

扉を出て、閉まる音がした、その瞬間。

アリシアは手の中のノートへ目を落とし、瞳の奥に、かすかな罪悪感と諦めを走らせた。

――このノートは、偽物だ。

自動筆記の魔法ペンを作り、自分の記憶の断片を流し込んだ。ペンは昼も夜も勝手に走り続け、ページを埋め尽くした。書き込まれた注釈は、かつて師から叩き込まれた知識。乱雑な筆跡も、わざと「本物の師匠の字」に寄せてある。

あの人の字は医者の走り書きより判読不能だった。目くらましにはうってつけ。

さらに書店で無地のノートを買い、手間をかけて古びさせ、表紙には血に反応する封印陣まで仕込んだ。「滴血で真の内容が現れる」――そんなもっともらしい仕掛けに見えるように。

書店の店主の記憶も、そっと弄った。店主自身が「売れ残りの古いノートをおまけにした」と思い込むように。

完全な嘘ではない。

公爵令嬢が書店の常連なのは事実で、店主がおまけを付けたことも何度もある。ただ、以前のおまけは新品の無地ノートばかりだった――そこだけが違う。

だが、彼女はすでに手を回している。わざと追加でノートを買いに行き、店主ともう一度会って、記憶の辻褄を念入りに整えた。アリシア以上の魔法使いが覗き込まない限り、誰にも破れない。

とはいえ、綻びがゼロになるわけではない。

固化剤の「知識」はノートで説明できても、製造と描画の「腕」は説明しきれない。父がどれだけ娘に無関心でも、アリシアの魔法の成績が平凡だったことくらいは知っている。母が領地から定期的に手紙を寄越し、家のことを逐一報告しているのだから、授業の話が混じらないはずがない。

錬金も魔薬も、理屈だけで手が動かない。常識的に考えれば、彼女は短期間で固化剤を作り、四陣を一つに束ねた複合魔法陣を刻めるはずがない。父と兄は真っ先にその矛盾へ気づくべきだった。

だが、気づかなかった。

アリシアが――二人に、思考を曇らせる魔法をかけているからだ。

魂へ触れる混濁の術。潜在意識に刷り込む。「娘は以前から研究していた」「生まれつきの才がある」。アリシアが解除しない限り、二人はそう信じ続ける。仮に外野が疑っても、父と兄は揺るがない盾になる。

――誰かがアリシアを上回る力で干渉しない限り、この術は剥がれない。

家族へ手を出す。胸が痛まないわけがない。

それでも必要だった。まず疑念を消し、味方を得る。そうしなければ、彼女は屋敷の中ですら背後を警戒し続ける羽目になる。母が領地から戻ったら――きっと、同じ「贈り物」を渡すことになるだろう。

アリシアは偽りの古いノートを抱え、ゆっくり自室へ向かった。

廊下の窓から夜風が吹き込み、前髪がさらりと揺れる。彼女は小さく息を吐いた。

――選んだ道だ。

どれほど険しくても、一歩ずつ進むしかない。

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